京都庭園散歩 大覚寺(2019年04月)

場 所:京都市右京区嵯峨大沢町4

拝 観:無休(寺内行事により内拝不可日有)

拝観料:500円

拝観時間:9:00~17:00(16:30受付終了)

大覚寺は真言宗大覚寺派大本山で、山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とする五大明王、正式名称は旧嵯峨御所大本山大覚寺です。開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である

嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮(離宮嵯峨院)

を営んでいました。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされています。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女・正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺の始まりです。開山は淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王でした。

鎌倉時代の徳治3年(1308年)に後宇多法皇が大覚寺を再興、法皇はここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれるようになりました。法皇の父である亀山法皇から続く系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位につくようになりました。

応仁の乱などにより度々焼失したが、天正17年(1589年)に空性を門跡に迎えた後再建に取り掛かり、寛永年間(1624年~1644年)にはほぼ寺観が整った。

大覚寺はまた、いけばな発祥の寺としても有名で、嵯峨御流の総司所となっています。

御所跡地が国の史跡に指定されています。

今回は、皇位継承記念・春期名宝展「天皇と大覚寺」(平成31年03月15日~05月13日)と観桜を兼ねて訪問しました。

大覚寺バス停から北に進むと大覚寺への参道があります。

境内図。

参道左手に道があり、奥に華供養塔(正面)と嵯峨天皇歌碑(右手)と未生斎広甫歌碑(左手)があります。

参道右手は松と桜があります。

築地塀に勅使門があり、望雲亭に向かう道から門越しに見ることが出来ます。

参道を進むと有栖川(御殿川)が築地塀沿いに流れています。奥に見えている石橋は、勅使門への橋です。

川を渡ると左に表門があります。

表門を入ると正面に拝観入口があり、右隣に式台玄関、左隣に庫裡(明智陣屋)があります。式台玄関(大玄関)は江戸時代初めに御所より移築されたものです。

表門を入って右手(東側)に中門があります。中門の奥は宸殿南庭になります。

拝観入口右手の井戸。

受付を済ませ右に進むと式台玄関の間に出ます。障壁画は狩野永徳作「松に山鳥図」です。重要文化財の仏像・絵画・装飾品などは収蔵庫に収められていますので、飾られてるのは複製です。

式台玄関から外を見た景色。

式台玄関から宸殿に向かいます。建物との間はすべて廊下で繋がっています。右手に式台玄関と宸殿との間の細長い庭があります。

左手(宸殿北側)には四隅を囲まれた中庭があります。奥に見えるのは、宸殿と御影堂とを繋ぐ村雨の廊下です。

宸殿の廊下を伝って南側へ。東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝えられています。入母屋造り、檜皮葺、周囲に広縁を巡らしています。内部は大きく4室に分かれ、南正面の西側が「牡丹の間」、東側が「柳松の間」、奥の西側が「紅梅の間」、東側が「鶴の間」です。蔀(しとみ)が跳ね上げられ内部が拝観できるようになっています。(重要文化財)

前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(桜ではありません)が植えられています。

白砂の向こう左正面に勅使門があります。江戸時代・嘉永年間の再建で、切妻造りの四脚門、正面および背面に軒唐破風を付けています。

右手(西側)には、表門を入って右側に見えていた中門があります。

宸殿を東に回ると中央に石楽台(能舞台)があり、その向こうに左から御影堂(心経前殿)・御霊殿・五大堂が見えます。

宸殿東側の広縁と右正面は御影堂。

東側の広縁を真っすぐ進むと、宸殿の北側に出ます。宸殿の北側には、来るときに式台玄関から見えていた、宸殿・時雨の廊下・正寝殿・庫裡に囲まれた東西に細長い庭があります。

宸殿から見た正寝殿。正寝殿は入母屋造、檜皮葺き。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれるています。東列は北から南へ「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」の4室(各8畳)、中央列は北が「雪の間」、南が「鷹の間」(各12畳)、西列は3間×1間半の細長い部屋(9畳)が2室で、北が「山水の間」、南が「賢人の間」です。御冠の間には玉座があり、後宇多院が院政を行った部屋を再現したものです。狩野山楽および渡辺始興の筆の障壁画があります。(重要文化財)

宸殿北側から見た村雨の廊下と御影堂

村雨の廊下を渡って北の方向にある朱塗りの霊明殿を見た景色。左は霊明殿に繋がる回廊で、手前に庭園が広がっています。

村雨の廊下を右(東)に行くと御影堂に繋がりますが、西に向かい先に正寝殿から霊明殿へ向かいます。村雨の廊下から見た正寝殿。

村雨の回廊は、柱を雨・直角に曲がっている回廊を稲妻に見立てています。天井は刀や槍が振り回すことが出来ないように敢えて低く造られ、床は鶯張りになっています。

正寝殿に突き当たって右(北)側を見た景色。左側に正寝殿の縁側から続く回廊と正面奥に霊明殿が見えています。

正寝殿東側の縁側から見た霊明殿前の庭園

霊明殿に向かう回廊。左(西)側の白い壁の建物は庭湖館で、回廊との間に細長い中庭があります。

正寝殿北側の縁側の突き当りから西側を見た景色。露地庭が折れて正寝殿の西側に回り込んでいます。正面奥の建物は寺務所へ続く建物です。

正寝殿から分岐点付近まで進んで振り返って(南側を)見た景色。正面の白い壁の建物が正寝殿です。左(東)側が霊明殿の前庭。右(西)側が庭湖館との間の中庭。庭湖館は、江戸時代中期に大沢池畔に建てられた休憩所を、明治元年(1868年)に移築したものです。(非公開)

分岐点から北側を見た景色。霊明殿へ回廊が繋がっています。

分岐点を一旦西に進むと庭湖館の縁側が西に延び、右の折れて秩父宮御殿へと続いています。秩父宮御殿は大正3年(1923年)、東宮仮御所の霞が関離宮(現・国会前庭)に建てられたもので、昭和46年(1971年)に大覚寺へ下賜されたものです。(非公開)

庭湖館の北側には池のある庭園が広がっています。右端にある朱塗りの小さな建物は北端にある稲荷です。

分岐点まで戻って霊明殿に向かいますが、先に回廊途中から西側の庭園と秩父宮御殿を見た景色。

回廊途中から見た東側の勅封心経殿(左)と御影堂(右)

回廊途中から見た東側の霊明殿。霊明殿は、総理大臣を務めた斎藤実が、昭和3年(1928年)に東京沼袋に建てた日仏寺の本堂を移築したものです。総朱塗りの建物で、本尊は阿弥陀如来です。

霊明殿に至る回廊の端から南側の景色、庭園と正面が宸殿、左が御影堂。

霊明殿の正面(南側)の縁側。(東南角から西方向)

霊明殿から東側の勅封心経殿(手前)と御影堂(奥)、勅封心経殿の後ろは、霊宝館です。勅封心経殿は、大正14年(1925年)に建てられた鉄筋コンクリート製の八角堂で、側面は校倉造風となっています。内部には、嵯峨天皇・後光厳天皇・後花園天皇・後奈良天皇・正親町天皇・光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来を安置しています。

霊明殿を一回りして後、村雨の廊下まで戻って御影堂に向かいます。霊明殿の東側と北側の縁側。

霊明殿の西側から秩父宮御殿方向の景色。

霊明殿から正寝殿に続く回廊。

村雨の廊下の東端から庭園越しの霊明殿。

御影堂南の縁側から南方向の景色。左に御霊殿(安井堂)と五大堂(本堂)、正面に能舞台と勅使門。御影堂は入母屋造、桟瓦葺で、大正天皇の即位式に使用されたものを、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺に移築されたものです。

御霊殿(左手前)と五大堂(左奥)。

御霊殿(安井堂)は、京都東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を、明治4年(1871年)に移築したものです。

五大堂は天明年間(1781年~1789年)の建立で、正面5間、側面5間の建物で正面に吹き抜けの広縁を設けています。また東側にも、大沢池に張り出す形で広い濡れ縁(観月台)が設けられています。内部には五大明王を安置。建物は当初は能舞台(石楽台)の位置にありましたが、御影堂の移築に伴い現在の位置に移動しました。

御影堂の北側から勅封心経殿の前を通って霊宝館を拝観してから、南の御霊殿から五大堂の西側を通って、五大堂の南側から東側の観月台に向かいます。

御霊殿前(西側)から宸殿の方を見た景色。

五大堂西側から勅使門方向を見た景色。

五大堂南側、南西角からと南東角からの景色。

観月台から東の大沢池と北の五社明神の方を見た景色。

参拝入口まで戻って表門へ。右手の細長い建物は供侍です。

2019年04月09日撮影

0コメント

  • 1000 / 1000