京都神社仏閣編 常照寺(2019年05月)

場 所:京都市北区鷹峯北鷹峯町45

拝 観:無休

拝観料:400円(11月06日~12月05日は500円)

拝観時間:8:30~17:00

常照寺(じょうしょうじ)は日蓮宗の寺院で、山号は寂光山(じゃっこうざん)、本尊は三宝尊。

元和元年(1615年)に本阿弥光悦は、徳川家康より鷹峰の地を拝領し、本阿弥一門と共に移住しました。元和2年(1616年)に、本阿弥光悦、光瑳親子は、同所に「法華の鎮所」を建立し、鷹峰に弘通していた寂照院日乾上人を招じてこれを捧げ、日乾上人はその鎮所を寂光山常照寺と号しました。

さらに1627年(寛永4年)に日乾上人は常照寺に僧侶の学問所・鷹峰檀林を創設。最盛期には学僧200余人が学んでいたとの記録が残っているそうです。往時は境内数万坪の中に、講堂、衆妙堂、玄義寮、妙見堂など三〇余棟の堂宇が存在しました。

また、常照寺は吉野太夫ゆかりの寺としても知られています。

吉野太夫(本名松田徳子)(1606年~1643年)は慶長11年(1606年)に京都で生れました。父は西国の武士松田武右衛門です。幼くして父と死別した徳子は、六条三筋町の遊里に預けられました。

14歳の若さで2代目吉野太夫の名跡を継いだ徳子は、やがて「寛永三名妓・天下随一希代の太夫」と謳われ、その名は遠く明国まで聞こえたと云われています。

当山の開基檀越である本阿弥光悦を介して開山寂照院日乾上人に深く帰依し、1628年(寛永5年)に山門(赤門)を寄進しています。

現在、約五千坪の境内には、本堂・吉野門・帯塚・経蔵・鬼子母尊神堂・常冨大菩薩殿・妙法龍神社の他、白馬観音像・聚楽亭・遺芳庵・開山堂・比翼塚・書院・庫裡などの建物があります。

鷹峯源光庵前バス停から府道31号線を東に進むと入口があります。奥に吉野太夫寄進の山門が見えます。

境内図

山門を潜ると左手に井戸とその北側に石灯籠があります。

右手には、帯塚があります。帯塚は帯・着物を供養し、且つ全国着物愛好家の美と文化への感謝の象徴として昭和44年(1969年)に建てられたものです。前庭園は中根金作氏の設計・監修になるものです。帯塚の左側に見えるのは吉川観方先生小直衣の像です。吉川観方は我が国時代風俗研究の権威で、不滅の功績を記念するために昭和54年(1979年)に建てられたものです。

帯塚の隣には宝蔵があります。また、その左隣には「蔵の財よりも身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」と書かれた石碑が立っています。

参道の正面に本堂があり右手に庫裡(梅樹庵)があります。

庫裡で受付を済ませ本堂右側から上がります。上がって本堂正面の縁側を見た景色。

本堂に架かる六牙日潮上人筆の旃檀林の扁額

本堂右手前には書院(衆玅堂)に向かう回廊があり、本堂と回廊と書院に囲まれて「霊鷲山の庭」があります。

本堂から右手の回廊を渡って書院(衆玅堂)に向かいます。(書院内は撮影禁止)

書院で常照寺を紹介する映像を観て本堂に戻ります。本堂から庫裡を方向を見た景色。

本堂の南側

本堂から境内に戻って、本堂右手前にあるお守り等の見本

本堂左手前にある手水鉢

本堂前を左に鬼子母神堂から一旦西の白馬池と白馬観音を見て、北の聚楽亭、遺芳庵を巡り吉野太夫の墓をお参りして、開山廟から紹鷗・吉野比翼塚の前を通って本堂に戻るルートで拝観して行きます。

本堂前を左に進むと道は二手に分かれます。左に進むと

お堂が3つ建っています。

正面が鬼子母神堂。三体の鬼子母神像と十羅刹女が祀られています。

右奥が常富(つねとみ)大菩薩堂(鎮守社)。享保年間、当寺に智湧という常人と異なる学僧がいて、奇瑞不思議が起こるので智湧をいぶかって、学頭の日善上人がある夜智湧の部屋をこっそり覗いたところ、白狐が一心に書見をしていたそうです。姿を見られた智湧は仕方なく当山を去り、能勢の妙見山に籠って修行を重ねて常富大菩薩となったそうです。

右手前が妙法龍神堂です。

妙法龍神堂の前を右に進むと窪地があり、左側に白馬池に通じる草門があります。

草門を潜ると階段が長い階段があります。

階段を下りて更に進むと道は二手に分かれます。左は行き止まりで花扇桜があります。

右手に再び長い階段があり下りると白馬池に出ます。

昔、鷹峯の北山に仙人が住んでいて白馬に乗ってこの池に往来していたとの言い伝えがありました。平成21年に沼として伝承されてきた池を復興し、仙人を白馬観音として法華勧進し、顕彰碑を建て一字一石法華経を埋経して顕彰したそうです。

再び階段を登って草門へ。

草門を出て左に回遊展望庭園を抜けて聚楽亭へ。途中に四阿があります。

聚楽亭の横を抜けて遺芳庵へ。遺芳庵には吉野太夫が好んだ大丸窓(吉野窓)があります。

遺芳庵から吉野太夫の墓へ。吉野太夫は寛永8年(1631年)に退廓し豪商で文人でもあった灰屋紹益と結婚。時に26歳。 寛永20年(1643年10月7日)に38歳でこの世を去りました。灰屋紹益と吉野太夫のロマンスは有名です。 

開山廟を通って比翼塚へ。開山廟には日乾上人の五輪塔が祀られています。扉には五七の桐が彫刻されています。

紹益と太夫の比翼塚と歌碑は、戯曲「桜時雨」の縁により、歌舞伎俳優の13代片岡仁左衛門丈らによって昭和46年に建てられたものです。歌碑は灰屋紹益が妻の太夫を亡くして詠んだもので、片岡仁左衛門丈の揮毫によるものです。

「都をば 花なき里になしにけり 吉野は死出の 山にうつして」

本堂の横を通って府道31号線へ。

2019年05月09日撮影

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